ケイレブ・ブラッドハム
ケイレブ・ブラッドハム
ペプシコーラは、1894年にアメリカ合衆国ノースカロライナ州の薬剤師ケイレブ・ブラッ
ドハムが消化不良の治療薬として売り出した飲料に起源を発する。当初の処方では消化酵
素のペプシンが含有されていたので、1898年にペプシンに因んでペプシコーラと名前を変
更した。
第一次世界大戦頃には全米25州にフランチャイズのボトリング工場を擁するまでに事業拡
大したが、大戦中の砂糖相場の乱高下の打撃を受けて1922年に破綻した。ブラッドハムは
コカ・コーラ社に会社売却を依頼したが、コカ・コーラを買収したばかりだったアーネス
ト・ウッドラフは、1ドルの価値もないと判断して拒否。結局、投資家のロイ・メガーゲル
がペプシを買収するものの、経営は振るわず1933年に再度会社売却することになる。
この時、ドラッグストアとソーダ・ファウンテンの経営者でコカ・コーラと利益の分配で
対立していたチャールズ・ガズがペプシ社を買収、原液の配合をコカ・コーラに類似した
ものに変え、コーラの瓶より内容量の多いビール瓶に瓶詰めしてコカ・コーラと同じ値段
で売る低価格戦略で攻勢に打って出た。これが当たり、ようやくペプシは経営が安定する。
第二次世界大戦下では軍需品として特別扱いされたコカ・コーラに引き離されてしまう[1]
ものの、コカ・コーラから移籍してきたアル・スティールによって、自動販売機での販売
を開始すると再び成長軌道に乗った。
1959年には、かつて顧問弁護士であったリチャード・ニクソン副大統領の紹介でソビエト
連邦のニキータ・フルシチョフ書記長にペプシコーラを試飲させることに成功。1970年代
にニクソンが大統領に就任、ペプシコーラはソビエト連邦政府と20年間の独占契約をした。
これによりソ連と契約した最初のアメリカ製品となる。この後、ソビエト連邦ではペプシ
コーラは一般的に入手することが可能となり、他の共産圏諸国(東ドイツ、ルーマニアな
ど)でも販売された。
フリトレーやピザハット、ケンタッキーフライドチキン、タコベルなどを傘下におさめ、
清涼飲料水以外の分野にも進出しているが、現在はレストラン事業はペプシコ・インクよ
りスピンオフし、トライコングローバルレストラン(現ヤム・ブランズ)となっている。
なお、ペプシコ社の社長であったロジャー・エンリコが、当時どのようにコカコーラ社と
競争していったかを執筆している。
ロジャー・エンリコ、ジェシー・コーンブルース『コーラ戦争に勝った! —ペプシ社長が明
かすマーケティングのすべて—』(原題:THE OTHER GUY BLINKED: HOW PEPSI
WON THE COLA WARS)